夕焼け小焼け

夕焼けをこよなく愛する男の雑記ブログ

「書く」という事。

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私たち人間が日々行うことの中に一つ、「書く」という作業がある。今となっては極当たり前にこなしている事だが、最初に何かを書いたのはいつだったであろうか。覚えていない人の方が多いのではなかろうか。少なくとも私は覚えていない。幼児期か、さらに前か。「お絵かき」という書く事そのものが遊びになっている人もいれば、それが同じくして仕事になっている人もいる。絵を書くのか、字を書くのか。もしくは他の何かか。皆目的によって決めている。私は今日常的に文章を書いている。

 

何を書くかというのも自分の都合で決めているが、「何で書くか」という事も各々で選択しているのが現代だ。昔はシャーペンなんてものは無かっただろうし、ボールペンが生まれたのだって比較的最近である。

 

私は今、この記事を電子機器で書いている。今やパソコンやスマートフォンでも文章を書くことが出来るのだ。昔の人は機械で文章を書く時代がくるなんて想像していただろうか。正しくは文章を「打っている」と行った方が適切なのかも知れないが、やはり書いていると表現した方が自然だろう。当の私も、文章を打つというより書いている感覚を持って執筆に取り組んでいる。

 

さて、わずか数十年で「機械によって書く」という表現が生まれた。もう10年後には一体何で書くのであろうか。音声認識システムを使い「声で書く」ことは既にできている。その次は何なのだろうか。意識だろうか。考えたことがそのまま文章になる、という時代もくるかもしれない。車の自動運転もそうだし、丸い形状した機械に猫なで声でお願いすれば物を買える時代だ。いずれにせよ「手を使う」ことがなくなっていくんだろう。「人間はそこにいるだけ」で何でもこなせるようになってくる。

 

しかし私は「手を使って」文章を書くのが好きだ。紙と、ペンとを使って文章を書く。文章でなくて何か単語でもいいし、ささっとメモを書く程度でもいい。とにかく紙とペンを使って書くというのは割と意識的にやってる。

何故なら、その方が頭が整理されるような気がするからだ。とっ散らかった頭の中を整理してくれる、そんな時間が書く事で生まれている。実際にパソコンで文章を打っても、いまいち頭にそれが入りきらないのを感じている。やはり、紙とペンを使った方がその直後の感覚が違うのだ。

書く、という事はアウトプットであるのは言わずもがなであろう。学んだ事、感じたことを書くことでアウトプットしていく。それを経てようやく自分の地肉になる。物事は頭に入れるだけではダメなのだ。学校のテストだってそのためにあるが、その機会が乏しいので必要ない知識は忘却の彼方へと追いやられる。反面普段使う算数なんかは忘れている人などいないだろう。何でもそうで、それを生かす機会がないと意味がないのだ。

そういった意味では、我々には書くという能力がある。書くことでアウトプットができるのは周知の事実。その貴重な技術が時代と共に移り変わりどう変化していくのか。甚だ想像ができないが、私は依然紙とペンで頭を整理してアウトプットしていくことを忘れないでいたい。

 

何にしても

好きな子の字が上手いか下手かで一喜一憂しない時代がくると思うと、少し淋しいものだ。